Special interview - PART 3:EPICソニー〜ゴルフ・レコード時代(1997年〜2003年)

interviewer : シンコー・ミュージック / CROSSBEAT 荒野政寿


──その後1997年にEPICソニーへ移籍しますが、あれはどんな経緯で決まったんですか?

アベ:それこそグレート・リッチーズとやったライブに、彼らを観るのが目的でEPICソニーの後等さんが来てて、俺たちを観て面白いなと思ったらしくて。

ハッチ:そうなんだ? それは悪いことをしたね(笑)。

アベ:それから『SOMETHING Dew』を聴いて、2曲で「これをやりたい!」ってなったらしいんですよね。後等さんはまだディレクター1年生だったんで、最初の担当が我々で。それこそ古閑さんのようにライブを観に来て、熱心に話してくれて…まあ、その頃古閑さんがどう思ってたのかわかんないですけど…。

古閑:ファック…(笑)。

全員:(笑)。

──EPICソニーと契約したと聞いて驚いたんですけど、『ROYAL LOUNGE』(1997年)を聴いてみるとバンド側がちゃんと方向性を掌握しているのがわかって。変に大人が手を入れるようなことにはならなかったですよね。

アベ:とにかくそれが条件でしたね。「何にも言わないでください、好きにやらせてください。だったらやります」っていう感じです。それと、せっかくメジャーなんで、「お金をかけて、ちゃんとした機材が揃ってるスタジオで録らせて欲しい」という条件も出して。だからそれまで録ってくれてたDEWマキノさんがエンジニアをやってないんですけど、我々が言語化できないようなことを言葉にして伝えてもらいたかったんで、レコーディングの現場には来てもらってました。「好きにやらせて欲しいけど、口出しはしないで欲しい」と…担当がディレクター1年生じゃなかったら、ああいうことはやらせてもらえなかったと思う。

ハッチ:凄い図々しいねえ(笑)。

アベ:APIの卓(ミキシングコンソール)があって、マイクとかもいろいろあるスタジオで…でも、自分たちがやりたいことをどう伝えたらいいかわからないから、「ドラムのチューニングをする」っていう名目で、それまでずっとエンジニアをやってくれてたDEWマキノさんに来てもらってね。

ハッチ:そうだったんだ!

アベ:そうやって『ROYAL LOUNGE』と『Berry,Berry Bo,hho』(1998年)を作っている間も毎回DEWマキノさんに来てもらってました。で、『S,P&Y -Sound,Pew and Young-』(1999年)を半分くらい録ったところで別のスタジオに移って、いよいよエンジニアにDEWマキノさんが復活する。

ハッチ:そうなの?

アベ:途中であそこに移ったんだよ、阿佐ヶ谷のSPACE VELIO。そこはもっと古いヴィンテージの機材があって。ジャズ用のスタジオだったから、マイクも40年代のスタジオで使ってたようなやつでね。ロックを録る所じゃなかったんですよ。コントロールルームはアビー・ロード・スタジオみたいに2階にあって…。

ハッチ:それ全然覚えてねえわ(笑)。スタジオ自体も覚えてねえもんな。

──EPICソニーでアルバムを3枚出した頃はメディアへの露出も格段に増えましたけど、バンドの歴史とかをまともに話した、正確な内容のロングインタビューがほとんど見当たらなくて。だから今日、こうやって出会いからの話をおさらいしておきたかったんですよ。

アベ:デキシード・ザ・エモンズはインタビューする人たちの仲間内で評判が良くなくてね(笑)。「明日デキシード・ザ・エモンズの取材なんだ」「えー、それは大変だよ!」って言われてたらしいです。その頃って特定の音楽メディアが全部の指標を決めてるように感じていて、「それって何なの?」ってずっと疑問に思ってたから…なので取材でもデタラメなことばかり言ってました。EPICソニー時代はその最たるもので、我々は非常に態度が悪かったですね(笑)。

──なるほど…そのせいかわかりませんが、EPICソニー時代のアルバムは過小評価されてる気がして。メジャーに行っても自分たちの世界を3枚守り抜いて、徹底的にやり切った時代だと思うんですよ。特に『S,P&Y -Sound,Pew and Young-』の完成度は凄まじかったですね。

アベ:ちょっとやり過ぎちゃいました(笑)。

──最近も音楽誌で90年代を振り返る特集とかよく見かけますけど、何故かデキシード・ザ・エモンズの作品はスルーされがちなんで、いったいどういうことなんだろう?と疑問に思っていて。

アベ:ねえ…。まあ、売れなかったから(笑)。

──批評のまな板に乗ったことすらあんまりない気がして…それが不思議で仕方ないです。

アベ:そう言ってもらえるのはありがたいんだけど、同じように言ってくれるのはフミ・ヤマウチさんだけですからね。

ハッチ:もうちょっとダサさが必要だったよね。わかりやすい日本語だとかね。

アベ:EPICソニーの後等さんにずっと言われてたのは、「田舎の中学の卓球部の子にもわかる曲をやってくれ」と。だからシングルもこの曲にしよう、とか実際に言われてましたから。

ハッチ:そこに向ける必要なんかないと思うけどな(笑)。

──「アイ・ガット・ユー」のプロモーションビデオとか、めちゃめちゃかっこいいけど中学生には訳がわかんないでしょうね。

ハッチ:そうだね(笑)。

──結局メジャーってそういう場所なんだなと知る、学習の時期というか。

アベ:そうですね。とはいえ、後等さんは好きにやらせてくれたんで、本当に感謝だよね。やりたいことをやったから、今となってはどうでもいいもんな(笑)。

──やっぱりあの時期にファンの数は一気に増えたでしょうし。

アベ:まあそうですよ。今でもひとりで地方へ行ったりしても、お客さんが来てくれますから。やっぱりメジャーっていうのはそういうことなんだなと思います。テレビとかも出たんでね。

──ライブバンドとしては、岩島さんが入ってからずっと上り調子でしたよね。

アベ:一番ライブをやってましたからね。でも変な話、EPICソニー時代はお給料がもらえてたんで、ライブの本数が減っちゃって。とにかく言うことを聞くのがバカみたいと思ってたんで、「嫌だ、嫌だ」ばかり言ってて。

ハッチ:やっぱり定額支給があると、ちょっとやる気がなくなっちゃうんですよね(笑)。弱いんですよ、定額支給に。

アベ:ハングリー精神がなくなっちゃうんだな。

──『S,P&Y -Sound,Pew and Young-』が出た後だったと思いますけど、デキシード・ザ・エモンズの今後が気になってソニーの知り合いに訊いたら、「メジャーに来てみたけれど、どうも自分たちがやりたかったことと違うと感じたようで、『インディーに戻りたい』と話してるみたい」と聞いたことがありました。

アベ:いや、別に戻りたいとは思わなかった。契約自体がそこで終わりだったんでね。まあ、売れなかったからクビになったわけですよ。

──次のゴルフ・レコード時代は、6分超えの大胆なシングル「Highland Park」(2000年)から幕を開けて、ライブの本数も増えて行きました。

アベ:自分たちでやっていかなきゃいけなくなって、やっぱりライブをたくさんやらないと…当然食い扶持としての意味でもね。その頃はスクービードゥーが全県ツアーをやったり、キング・ブラザーズ、ニートビーツとかライブ巧者が活躍していて、しかも凄い本数をやる。そういう人たちともライブをやるようになって、自分たちが凄くサボってることに気が付いたんですよ。

ハッチ:やっと! 遅いよ(笑)。

アベ:で、マネージャーの岡崎君から「スクービードゥー、全県回ってますよ。本当にこれぐらいやりましょう」っていう話があって。スクービードゥーの全県ライブも6箇所ぐらい誘われて、初めて行く盛岡とかに行って、さすがにそこは全力でやるじゃないですか。それまでのライブも投げやりにやってたわけじゃないけど、一生懸命やることの面白さに目覚めたっていうか、本当にバンドが一丸となってやってる感じでした。それまで6都市ぐらいしか行ってなかったし、別にいろんな所に行かなくてもいいよって思っちゃってた。とにかく下積みをやらずに来てたんで。

ハッチ:地方へ行くと、各地のプロモーターとかとも知り合いになれて。その方がやっぱりいいんだよな。

アベ:その土地の60年代の音楽とか好きな人たちにイベントをやってもらったりすると、メジャーの頃みたいにチラシを配って行ってるだけのライブとは全然違うタイプのお客さんが来ますから。お客さんが熱いと、こっちも熱くなるし。

──時代的には、CDのセールスが頭打ちになってきて、ライブを重視するバンドが増えてきた時期でしたよね。

ハッチ:後輩のニートビーツやスクービードゥーがね、先見の明があってさすが若者! スクービーは当時まだ大学生か。それも古閑さんが最初に出すって言って、「はっつぁんプロデュースをやって」って言われて、何で俺が?と思ったんだけど。もう出来上がってるバンドだったから、サウンドプロデュース的なことしかできないじゃない。俺もスクービー好きだったから、私でよければという感じだったんですけどね。最初のシングルの「夕焼けのメロディー」(1999年)は今でもいろんな人がいろんな所でかけてくれたり、お店とかで聴いたりするけど、あれはかっこいいね。

アベ:下の世代から刺激を受けましたね。僕もキング・ブラザーズの録音を一緒にやったり(2001年の『King Brothers』をバンドと共同プロデュース)。はっつぁんもスクービードゥーをプロデュースしたり、ニートビーツをプロデュースしたりとか(2000年の『EVERYBODY NEED!』『THERE NOW!』をプロデュース)。ちょっと先輩風吹かしてたんだよね。

ハッチ:吹かしてねえよ!(笑)

アベ:若い人たちの手伝いをすると、自分たちの勉強にもなるから。お互いがいろんなやつをやったからね。

ハッチ:内心、自分でやれよと思ってたけどね。

アベ:俺は思ってないよ!(笑)

──ゴルフ・レコードでは『COVER DYNAMITE』(2001年)、『Velb』(2002年)をリリースした後、ベースが岩島さんからブラウンノーズのプーヤンに交代して『BAKED AND QUESTION』(2003年)を録音しますが。どんな流れでメンバーチェンジすることに?

アベ:凄い本数でツアーをやってるから、さすがに疲弊してくるじゃないですか。それでセンパイがやめることになった時に、一応オーディションは何人かやって。その時に入ったのが、僕の近所に住んでたプーヤンでした。プーヤンはカーネーションの直枝(政広)さんとホプキンスをやってて、STUDIO SUNで練習してたんですよ。俺はソロか何かのレコーディングでいたのかな? そこで「私も近所に住んでるんですよ〜」って話しかけられて、知り合いになって。

ハッチ:プーヤンはもともとギターなんだよな。異様にうめえんだよ。

アベ:そうそう、凄い上手だし。家も近いからご飯をしょっちゅう食べてたんですよ。あいつは食い物が好きだから(笑)。それでオーディションの時にプーヤンも呼んでみたら、めちゃめちゃ弾けるじゃないですか。すぐ曲も覚えるし、じゃあやろうって感じで決まりました。

ハッチ:俺たちのベースを貸したよな。水色のやつね。

──割とすんなりバンドに馴染んだんですね。

アベ:うん。でも、ずっと食い物の話ばっかりしてた(笑)。

ハッチ:車内では揚げ物を食うしね。「お前、ツアーの車内でだけは揚げ物を食わないでくれ」って言って(笑)。

アベ:俺のソロで最初ベースを弾いてもらってたんですよ。はっつぁんがやってたソロのプロジェクトでもプーヤンがマンドリンを弾いたりね。

ハッチ:そうだそうだ。イチローと同じパターンじゃねえか(笑)。登竜門システムだね。




PART.4 に続きます!