interviewer : シンコー・ミュージック / CROSSBEAT 荒野政寿
──デキシード・ザ・エモンズが始まったのは1990年ですが、おふたりの出会いはもっと前なんですよね。
アベジュリー:そう、4人でバンドをやろうっていうときに始まってます。僕と高校の友達がバンドをやろうってなった時に、その友達がはっつぁんのバンドを手伝ってて。「彼のギターがいいから」っていうんで連れてきてくれたのがはっつぁんだった…その時はギタリストだったんですよ。
ハッチハッチェル:そうそう、アベ君はボーカルだけでね。ギターとドラムとベースがいるんだけど、ギターが抜けちゃったからひとり必要だってことで、ヘルプみたいな形で行った。
アベ:そう。僕はそれまで他の人の代わりに呼ばれてバンドで歌ったりはしてましたけど、初めて自分のバンドを作ろうってなったときに、はっつぁんが来てくれたわけです。
──それ以前は、ハッチさんはどういうバンドをやられてたんですか?
ハッチ:俺はねえ、エフェクターを凄くいっぱい使って、ディレイとかガンガンガンってやる感じの…いわゆるニューウェイヴですね。その頃よく観に行ってたのが、PERSONZとかChu-ya & De-LAXとか。BOØWYはもう売れちゃってたから観に行けなかったんだけど、あの辺が好きだったんですよ。
アベ:みんな真っ黒い服でね。自分がやりたいのはもうちょっとロック寄りだったから路線は違うけど、「ギターがいいから」っていうことでね。僕からはっつぁんに無理やりああしてこうしてっていう感じでもなかったけど、割と最初に「そういうギターじゃないんだよな」っていうのは言ったんだよね。それで揉めるとかじゃなく、すんなり行った感じだった。
ハッチ:俺、結構人に合わせるの好きだから、「じゃあ別にいいよ。エフェクター全部取っ払ってアンプ直結で行くわ」って言って。それで聴かせてもらったのがドクター・フィールグッドだったり、ウィルコ・ジョンソンだったりして。俺も一発で気に入って、「じゃあ俺はこういうスタイルでやるわ」ってことになったんです。俺、自分がないから何だっていいんですよ。相手がよければ。
──そんな始まり方だったんですね。その4人組のときからオリジナル曲をやってたんですか?
アベ:ですね。そうだったと思う。
ハッチ:当時ね、アベ君は千葉では見ない格好をしてたんですよ。髪の毛はこんな感じなんだけど、真っ黄色で、色眼鏡をかけてて、こんなやつはいねえなと思った。
──いわゆるブリティッシュ・ビート的な音楽は、アベさんと出会ってから聴き始めた感じだったんですか?
ハッチ:そうですね。それまでは高中正義、そしてリッチー・ブラックモア…そういうギターキッズだったんで、ギターがかっこいいやつっていうことだったんだけど。それ以外に、全体的にバンドとしてかっこいいものがあるんだなっていうのをアベ君から教えてもらった感じ。
──なるほど。やっぱり世代的にハード・ロックは一回通ってますよね。アベさんは以前ソロでKISSの「シャンディ」をカバーしてましたけど。
アベ:そうそう。「スーパー・ロック '84」にも行ったし。
──えっ、西武球場まで行ったんですか!?
ハッチ:まだアベ君と知り合う前だけど俺も行った、スコーピオンズがトリの日に。
アベ:俺はマイケル・シェンカーの日。
ハッチ:じゃあ違う日だ。
──ふたりとも行ってるんだ…凄いですね。
ハッチ:全国的にもね、この昭和42年生まれぐらいの人たちは「俺も行った!」とか言って割と盛り上がるんですよ。関東じゃない人でも。
アベ:あんなのそれまでなかったからね。
──やっぱりハード・ロック、ヘヴィ・メタルの影響は不可避なんですね、世代的に。
アベ:そうそう、「スーパー・ロック '84」に行ったかどうか!
ハッチ:西武所沢球場に行ったかどうか!
──その辺が新作の「ル・ノワール」のシン・リジィ風味につながっていくんですね。
ハッチ:そういうことですね(笑)。
アベ:やっぱりもう、ハード・ロック魂がね。60年代とかもちろん好きだけど、こだわりみたいなのはないんですよ。今日もシン・リジィ聴きながら来ちゃったもんな。
ハッチ:好きだね〜! やっぱりグッとくるんだよね、ツインギター。
──一回そこを通ってるから、おふたりとも演奏が妙にうまいんですかね?
ハッチ:うまくはない!(笑)
アベ:ある程度はうまくないとできなかったんですよ、特に千葉だと。パンクすらなかったから。
ハッチ:文化がなかったからな。
アベ:そういうバンドはギャザーズしかいなかった。The ピーズも実はギャザーズが好きだったんですよ。ヴィジュアル系、バッド・ボーイズ系はいたけど、そうじゃない千葉のバンドはみんなギャザーズを通ってるっていう。
──ギャザーズの持ち味は独特ですよね。ボーカルの堀部さんは動きがミック・ジャガーみたいなのに、バンドの音楽性はビートルズテイストに溢れているという。
アベ:ギャザーズのコンセプトは、ストーンズの演奏でビートルズを演るっていうのが大前提なんですよ。
──その後ギャザーズはコンピレーション『Attack Of... Mushroom People!』(1987年)に曲が入ったりしてネオGSに巻き込まれたりもしましたけど、それとも違う感じでしたもんね。
アベ:違う。そういうつもりも何も…普通にGSのレコードを持ってたりしますけど、GSをやりたいわけではない。ビートルズのような曲をストーンズのスタイルで、日本語で歌いたいってだけだから。
ハッチ:アベ君のギャザーズ愛は凄いんですよ、いまだに(笑)。
──何か近い匂いがあるなと思ってました。
アベ:STUDIO SUNにいたときに、ギャザーズから声をかけてくれたんですよ。ホワイトジーンズでマッシュルームカットだから、気になったのかギャザーズの人たちがチラチラこっちを見てて。俺たちがザ・フーの話とかしてたら「おっ」と反応して、「フーとか好きなの?」って話しかけてくれて。それで知り合いになって、千葉で一緒で演るようになったり…俺たち、最初は千葉で頑張ろうとしてたんだよね。
ハッチ:そうそう。
アベ:こういう文化を千葉で作りたい!と思って。DJとかもみんな知らないから、千葉でDJイベントをやりたいと思って…ターンテーブルもテクニクスとかじゃなくて、普通のレコードプレイヤーを2台並べて。
ハッチ:戻したり、キュキュキュッてやっちゃいけないやつ(笑)。アベ君にDJの技を教わったんだよな、「こうやって止めておくんだ」とか言って。
アベ:そう、そんなイベントをやってたんですよ、Route Fourteen(本八幡のライブハウス)で。
──本八幡にはよく行ってたんで、様子が目に浮かびますよ。
ハッチ:当時の主な練習場所は小岩のSOUND STUDIO Mですよ。
──わかります。本八幡の音楽館もよく使ってました。
ハッチ:何だっけな、個人宅のスタジオも使ったり。
アベ:それは誰も知らない(笑)。大橋さんっていうジャズピアノの先生が家でピアノを教えてて、家にスタジオがあるんですけど。あれ、はっつぁんが見つけてきたの?
ハッチ:どうだったっけな?
アベ:本当に住宅街の普通の家がスタジオになってて、誰もロックの人とかいないの。
ハッチ:ドラムあったよね?
アベ:ドラムがあって…何故かHIWATTのギターアンプがあった。
ハッチ:最初はよく借りてたよな、あそこから。半地下になってて運ぶのが大変なんだ(笑)。
アベ:そこで最初に言った、4人でやってたバンドで録音して。
──それは何ていうバンド名だったんですか?
アベ:クリネックス。
ハッチ:あー、言われたくないやつ自分で言った(笑)。
アベ:そのときからもう「My Generation」とかやってたんですよね。「Surfin’ Bird」とかも。それで、「オリジナル曲があるから録音しよう」って言って、その時点から多重録音をやり始めてて。後でデキシード・ザ・エモンズでやる「ヨーゼフの嘆き」も実はそのバンドでやってて、はっつぁんがバイオリンをめちゃめちゃ重ねて。
ハッチ:そうだっけ?(笑)
アベ:そうだよ。「ヨーゼフ」って3回録音してるから。最初にクリネックスで録音して、デキシード・ザ・エモンズの最初のライブでテープを20本配ったんですけど、そこでは最初のベースの(塩原)周が歌ってて。
──じゃあ、KOGAから出たシングルが3回目のレコーディングだったわけですか。
アベ:そう、あれは3回目。
古閑社長:マジかよ(笑)。
ハッチ:クリネックスの頃のライブはね、俺がギターでアベ君がボーカルだけでしょ。凄いんですよ…裸の上にレインコートを着てね、それでずーっと動き回ってんの。
アベ:透明のレインコートを着て、ここ(乳首)にガムテープを貼って。
ハッチ:気が狂ってる。俺が初めて見たパンクロッカーですよ。
アベ:「Surfin’ Bird」とか、客に水をブワーッて吐いて。
──どうしてそんなキャラクターになっていったんですか?
アベ:ザ・フーの『キッズ・アー・オールライト』のビデオを見て…
ハッチ:全然あんなことやってねえじゃねえか(笑)。
アベ:俺、パンクはそんなに通ってないから。
ハッチ:トイ・ドールズは好きだったけどね。
アベ:うん、それくらい。『キッズ・アー・オールライト』にとにかく衝撃を受けちゃって、こういうことをやっていいんだっていう…もちろん、スターリンとか話には聞いてたけど、臓物を投げるとか。だけどそういうのを直接見たことがなかったから、『キッズ・アー・オールライト』にやられてしまってね。当時は、とにかく千葉が腐ってると思ってて。
ハッチ:みんな埼玉がダサいっていうけど、千葉の方がダサいよね。「早く江戸川を越えようぜ」って言ってたんだけど、越えてもせいぜい小岩ですからね。新宿まではあまりにも遠くて。
アベ:そう。それで、「俺たちは新宿JAMに行くしかない」っていうことになっていくんですけど。
ハッチ:ところが新宿へ行くまでに、途中で四谷FOURVALLEYっていう関門があって(笑)。千葉のバンドは四谷で一回止めさせられるんですよ。
アベ:楽器屋とかで千葉の若いバンドに声をかけて、四谷FOURVALLEYに送り込んでた業界人っぽい人がいたんですよ。大人に名刺とか見せられると、それだけで舞い上がっちゃうじゃないですか、「デビューできる!」って。
ハッチ:舞い上がっちゃうんだよな、ダセエから(笑)。
アベ:俺はヘルプのバンドで1、2回出ただけだけど、はっつぁんは前のバンドで結構出てたんだよね。
ハッチ:そうそう。そこで「君のギターはギターの音じゃないねえ」なんて言われてね(笑)。そうやって千葉のバンドは四谷で一回止められるんですよ。
──なるほど。で、4人組のクリネックスから、2人になっていったいきさつは?
アベ:俺たち以外の2人は、めっちゃかわいい彼女がいて。俺たち2人には彼女がいない…クソモテない2人だったから。
ハッチ:かわいかったよな〜、あの彼女。
アベ:カップル、カップル、俺たち、みたいな感じで(笑)。
ハッチ:2人ずつ3組に分かれるんですよ。
アベ:スタジオの練習にも彼女が来ちゃってたから。終わってから俺ら2人で帰って、家に着いたらまたはっつぁんに電話して、また「あそこはこうしよう」とかって話して(笑)。俺たち音楽しかなかったから。それで、「この4人のバンドの宣伝をやろうぜ」って言って、2人で何かやろうって話になって。市川市の文化会館かなんかでお金払って出演するライブに出たときに、そこのロビーで2人で演り始めたんですよ。そのときにデキシード・ザ・エモンズって名前をつけたのが最初。アコースティックで、片一方がピアニカを弾いたりとか、そういうガチャガチャした感じでやり始めて。それを本八幡の駅前でもやるようになって。だからもともとは、クリネックスのライブを告知するのが目的でやってたんですよね。そこではオリジナルをやってたわけじゃなくて、美空ひばりの曲とか、エノケン(榎本健一)とか…そういう曲を結構聴いてたから、「月光価千金」をやったり。クレージーキャッツとかドリフの曲もやってたんです。GSも、カーナビーツの曲とかやって。それでライブにお客さんが来てくれるのかと思ったら…聴いてるのはおじさんおばさんだけだったっていう(笑)。若い人にまったく響かないんです。
ハッチ:おばさんにモテモテでね(笑)。こりゃまずいということで。
アベ:結局クリネックスは解散しちゃって。2人しかいない状態でRoute Fourteenにライブをやりたいって言いに行ったら、「いいですよ」ってことになって。そこでいよいよ、はっつぁんがドラム、俺がギターになった。
ハッチ:「どうする? ドラムがいないとどうにもなんねえよな」つって。それで俺の持ってるギターを阿部くんに貸して、「じゃあお前はギターをやって歌え、俺はドラムをやるから」って。その頃俺、アベ君の家に行ってザ・フーのビデオとかよく見てて、「キース・ムーンみてえなドラマーはいねえかね」って言ってて。千葉の田舎にいるわけがないから、「よし、こうなったらもう俺がやる」って…その時俺もう23歳ぐらいで、遅いわけですよ。みんなから「今からドラムやんの?」ってバカにされて、でも「うるせえ!」って言って。アベ君もほぼ初心者の状態でギターを始めて。
アベ:その編成で練習してるところに、スタジオから俺の小学校の友達の周君に電話して。
ハッチ:そうだったんだ!
アベ:そう。「お前何やってんだ、ライブ決まったんだから今すぐスタジオに来いよ」って言って。
ハッチ:「何やってんだ」じゃないよな(笑)。
アベ:そしたら「ん、わかったわ」って言って周君がすぐにベースかついでスタジオまで来てくれたんですよ。取り敢えず「簡単だから覚えろ」って、その場で「I Can’t Explain」と「My Generation」を教えて、いきなりライブでやっちゃった。そんな感じで始まりました。