Special interview - PART 2:東京進出〜OZ disc、K.O.G.Aからのリリース(90年代初頭〜1996年)

interviewer : シンコー・ミュージック / CROSSBEAT 荒野政寿


──周さんが入ってから、東京のライブハウスに出始めるまではどんな流れだったんですか?

アベジュリー:3人になって本八幡でギャザーズと一緒にイベントをやったりしてたんですけど。その頃になって、ザ・ヘアとかが新宿のJAMでライブをやって60sが好きな人たちが集まってるらしいとようやく知って。じゃあ我々も行ってみよう!ということになるんですけど。当時のJAMって友達同士で貸切のイベントをやったりしてたんで、千葉の我々がいきなり行っても仲間に入れてもらえる訳がない…そういうのも後から知るんですけど。で、はっつぁんがJAMにデモテープを持って行って、オーディションを受けさせてもらって。

ハッチハッチェル:昼の部ね。千葉のバンドがノルマ20枚…江戸川を越えてやってくる人がそんなにいるのかっていう(笑)…でも、もうやるしかない。「チケットが20枚売れなかったらその時点でダメです」って言われて。

アベ:で、来たのが今ボロキチのワンキチと、テルスターのマーボー(横山マサアキ)…彼はその後デキシード・ザ・エモンズに入る初期のベースですね。あとルルーズ・マーブルのふたり、ナニーキクチ…20人来てくれたんだよな。チケットをあげたりせずに、ちゃんと実券を買ってもらって。

ハッチ:あれで友達をいっぱい失ったもんね(笑)。

アベ:その時に5〜6バンドがお昼に出て、一期一会っていうバンドと我々が受かったんです。それから1回ぐらい普通にブッキングでライブをやったんだけど、JAMでブッキングを担当してた岸本さんが「ディーズメイトの企画に出ませんか?」って言ってくれたんですよ。

ハッチ:それ、(ディーズメイトの)アキシロさんから言ってくれたんじゃないかな? 俺、テープを持ってモッズのイベントとかガレージのイベントに顔を出したけど、アキシロさんだけがテープを受け取るなり「いいよ、今度何か出てみる?」って即答で言ってくれたのを覚えてる。それで「やった!」ってなってさ。

アベ:当時JAMが『ぴあ』に枠を持ってて、そこにスケジュールが載ったんだよね。ディーズメイトがやってた「クッキー&ビスケット」

ハッチ:なんか100人ぐらい来てたよね?

アベ:そうそう。凄い人気だったから、ディーズメイト。

ハッチ:それに出て我々が猛烈な勢いで演奏したら、次のライブにたくさんお客が来てくれたの。その時に見た人たちが一気に来てくれたよね。さらに今度はストライクスが「自分たちのイベントに出ないか」って誘ってくれて。トントン拍子でしたね〜(笑)。

アベ:ストライクスとディーズメイトと俺たち、3組でやろうって言ってくれて、あの時は本当にビックリしちゃって。

ハッチ:普通にお金払ってストライクスのライブを観に行ってたし、それまで話したこともない…俺たちからしたらアイドルだよな。そのストライクスからお声が掛かったから、超緊張してな。

アベ:ライブの前の日は本当に朝まで眠れなくて。

ハッチ:そのライブでも猛烈に演奏して、またお客さんが増えて。

アベ:モッズの人達ってクールに演奏するじゃないですか。そういうところでも俺たちは「ワーッ!」て演ってたんで。まあガレージの人たちは「ワーッ!」てやってたけど、The 5.6.7.8'sとか。大好きだったんでね、The 5.6.7.8'sが。

──そんな風にしてライブを重ねていくうちに評判がだんだん広がって、OZ discからリリースする流れになるんですか?

アベ:そうですね。代々木チョコレートシティでライブをやった時に、OZ discの田口(史人)さんが観に来てて、話しかけてくれて。「実はレコーディングしてます」って話をしたんです。僕らは千葉ではお金を払ってライブやってたから、東京でちゃんとギャラをもらうようになってからはそのお金を、ただ貯めてたんですよ。

ハッチ:打ち上げもやらずにね。

アベ:自分たちでそう決めて、ただ貯め続けてたら60万円ぐらい貯まっちゃって。でもレーベルとかやり方がわからないから、取り敢えず自分たちで録音しようかって言って。時間も凄いかかって、1年以上かけて録音していた音源があったんです。それを田口さんに話したら、「えっ、そうなの? どこから出すの?」って言われて。でも、俺たちは出し方とかわからないから…。

ハッチ:録音したのはいいけど(笑)。

アベ:それで田口さんが「じゃあうちから出さない?」って言ってくれて、テープをそのまま渡したんです。それが『アルバム No.1』っていう最初のCD(1994年)。ちょうど外資系の大型店が盛り上がってる頃に、まさかの面出しでやってくれて、ビックリしたんですけど…自分たちで面出ししに行こうと思ってたんで(笑)。それが結構売れちゃって。60年代の音楽が好きな人たちのところには届いたんですよね。そのアルバムを持って初めて大阪に行った時、もう物凄い熱狂があったんですよ。お客さんとかステージに上がって来ちゃって驚いた。

ハッチ:初めて大阪に行ったのってK.O.G.Aの頃じゃなかったっけ?

アベ:違うよ、ファーストの時に行ってる。あれ『カルトGSコレクション』っていう、クアトロでやった田口さんが関係してたイベントだから。

ハッチ:今日は初めて知った話がいっぱいあるな(笑)。

アベ:その時に、「もしかしてこれ、行けんのかな?」みたいに感じて。千葉とか新宿JAMだけじゃなくて、60年代の音楽が好きな人ってこんなにいるんだなと気が付いて。

──僕がデキシード ・ザ・エモンズを知ったのも、黒沢進さんの『日本ロック紀GS編』で『アルバム No.1』が紹介されているのを見たのが最初でした。

アベ:そんな風に割と60年代という枠の中だけでやってましたけど、下北沢にシェルターができてから、そこの秋山さんが「グレートジャパニーズPARTY」っていうイベントに呼んでくれて、グレート・リッチーズの人たちと対バンしたんですよ(1992年7月)。それも大きかった。普段来るような60年代の古着を着てる人たちじゃなくて、もう普通にTシャツ、ジーパンのバンドギャルみたいなお客さんたちの前で演ってね。

ハッチ:俺たちにしてみたらメジャーフィールドだよな。

アベ:そこでまた、今までとは全然違う種類のお客さんがついて。で、新宿JAMでワンマンをやってみたら、満員になっちゃったんですよ。それから僕はQueでバイトしながらまたお金を貯めて、次のアルバムも自分たちのお金で録り始めたんですけど。そんな頃に、いよいよK.O.G.Aの古閑さんが登場するんです。

──ヴィーナス・ペーターの古閑さんとデキシード・ザ・エモンズはそれまで接点がなかったと思うんですが、どうやって知り合ったんですか?

アベ:ファースト・アルバムで写真を撮ってくれた佐藤さんっていうフォトグラファーの人がヴィーナス・ペーター周辺と近しかったんですね。その人が、「次のアルバムを出すところがないんだったら、私からワンダー・リリース(ヴィーナス・ペーターが所属していたUKプロジェクト内のレーベル)に話してあげる」って言ってくれて。そちらでも話があったんだけど、それとはまったく別のルートで古閑さんの耳にも届いてたんです。

古閑:「こんなかっこいいバンドがいるよ」と聞いて、八王子かなんかで学園祭のライブを観たんですよ。

アベ:ああ。ヘアとゆらゆら帝国とやったやつ。

ハッチ:凄い押してた日だ。

古閑:帰りの電車がなくなっちゃうから、俺は途中で帰ったんですけど。4、5曲だけ観て、これはやべえって思って。

アベ:その日、めちゃめちゃ怒ってたんですよ。俺たちトリだったんだけど、最初に出てた学生バンドが平気で1時間とか押して、曲も削らないから後ろにどんどん押してきて。俺らがセッティングしてる間に主催の人が、お客さんに「あのー、ちょっと押してるんですけど、まあタクシーとか呼んで帰ってください」って言ってるのを聞いて、頭に来て。「ふざけんなよ! 絶対間に合うように終わらそう」って、物凄い猛スピードで演奏したの(笑)。確か25分ぐらいしかやらなかったと思う…今よりある意味パンクだった。めちゃくちゃなスピードでやってアンコールもやらずに終わったら、ゆらゆらの坂本(慎太郎)君が気に入ってくれたみたいで、そのすぐ後に「一緒にライブやんない?」って誘ってくれたりして。

ハッチ:そうだったのかー、速く演奏したのか。じゃあまた速くやるか(笑)。

──その頃にはもう、2枚目のアルバムは作りかけていたわけですね。

アベ:もう、ほぼあったもんね。テープは古閑さんも聴いてて。

ハッチ:半分ぐらいはあったんじゃないかな。

アベ:そこから古閑さんと毎晩のように飲みに行くようになって、飲む席でも熱意が伝わってきたんで。ワンダー・リリースは英語のバンドばかりで、我々は日本語だからコンセプトが全然違うと思ってて。でも、そこにいたヴィーナス・ペーターの古閑さんは英語にこだわってやってきた人なのに、日本語だけど自分のところから出したいっていう風に熱心に言ってくれてたから。じゃあK.O.G.Aの方でお願いしたいなと思った感じですかね。

──そしてK.O.G.Aから発売されたアルバム『デキシード・ザ・エモンズII』(1995年)は、ファースト以上の反響を呼びました。

アベ:K.O.G.Aから出したことで、ボーダーのシャツを着てる感じのギターポップのお客さんも割と受け入れてくれるようになって…60sが好きな人、バンドギャル、ギターポップが好きな人、3つのジャンルの人たちが受け入れてくれる感じができてきたというか。垣根を越えてた時代だったと思うんですけど、いわゆる渋谷系…自分たちは渋谷系だと思ってないけど、渋谷系っていうものがどんどん大きくなって、音楽の幅が凄く拡大しちゃってたから。「渋谷系が好きなら60年代のも聴かなきゃダメだよ」みたいな感じがあったじゃないですか? 俺らはその隅っこの、枠外に一番近いところにいるような感覚でした。

──そして3枚目のアルバム『SOMETHING Dew』(1996年)では、流通がメジャーのアルファレコードになりましたね。

アベ:それは古閑さんのつてですね。

古閑:僕がアルファレコードで働いてたんで。

──あのアルバムで認知度もより上がったと思うんですけど。

アベ:ん〜、どうなんだろう?

古閑:その時代にクアトロでワンマンやってるからね。

──同じアルファだと、セクサイト・レコードがザ・ヘアやルルーズ・マーブルのリリースを始めたのもほぼ同じ頃で。60年代的なサウンドのグループが注目された時期でしたよね。

アベ:「王様のブランチ」みたいな番組でも、当時「モッズとは?」とかやってたわけだからね。それぐらいモッズがお茶の間に行っちゃってたから。

ハッチ:あれ出たよな、「トゥナイト2」。

アベ:「トゥナイト」は2回ぐらい出てる気がするんだよな。

ハッチ:「今GSが来てる」みたいなアレで、北野誠さんが取材に来て。ちょっと演奏シーンもあったのかな? それでスタジオに帰って、北野さんが「今の時代にこういうの、新鮮ですよね?」って言ったら、隣の女が「そうですかぁ!?」って言ったのを凄いよく覚えてるよ。嫌な顔してよ(笑)。

──マスメディアでは突飛なものとして扱われてましたよね。

アベ:「トゥナイト2」だからねえ…何だろう、文化?

ハッチ:サブカルってやつ。こっちはサブカルのつもりなんかないのにさ。

アベ:でもアルファで良かったのは、ムッシュ(かまやつひろし)の耳に届いたからね。

ハッチ:古閑さんがムッシュに繋いでくれたんだよね?

古閑:そうそう。僕の上司が繋がりがあったから。

──なるほど。それがスパイダースのトリビュート・アルバム『スパイダース大作戦』(1996年)に繋がるわけですね(デキシード・ザ・エモンズは「メラ・メラ」「ヘイ・ボーイ」、ムッシュ&デキシード・ザ・エモンズ「メイ・シー・カム・マム?」で参加)。

アベ:その頃ムッシュが古閑さん経由で手紙とカセットテープをくれて。手紙に「凄く良かったから曲を作っちゃいました」って書いてあって。カセットに「メイ・シー・カム・マム?」のムッシュが歌ったバージョンが入ってたんですよ。ムッシュがダブルトラックぐらいで♪ラララ〜ってコーラスを重ねてて。これは良い曲だからやろうと古閑さんも言ってくれたので、ムッシュと我々でやることになりました。

ハッチ:最初はもっとメロウな感じの曲だったよね。歌詞もついてなくて。

アベ:そう。もらった時点では凄くおとなしい、デイヴ・クラーク・ファイヴの「ビコーズ」みたいな感じの曲だったんですよ。それで最初はそういう風にやってたんだけど、途中ではっつぁんが「ザ・フーみたいにしない?」って言って。

ハッチ:また出た、ひねくれ者が(笑)。

アベ:「ビコーズ」みたいに叩いてたらドラムがつまんないから。

ハッチ:俺の実力が発揮できないからな。

アベ:そんな風に変えちゃって、ムッシュが気を悪くしちゃうかなとも思ったんですけど。本当に生意気だよね…ムッシュとの打ち合わせの時にも、「歌詞は僕に書かせてください」って言っちゃって。

ハッチ:千載一遇のチャンスだからな(笑)。

アベ:ムッシュは「歌詞をちょっと考えてる。そこにはキンクスとかそういう言葉を入れようと思ってるんだ」って言ってたんだけど、それはちょっとなと思って(笑)。それでスパイダースの曲名を歌詞に盛り込んで、ザ・フーみたいな演奏をして。さすがにどうかなと思ったけど、ムッシュもめちゃめちゃ喜んでくれて良かったです。

ハッチ:「フーみたいでかっこいいですね」って言ってな(笑)。

──ムッシュとの共演に間に合ったのは本当に幸運でしたね。

ハッチ:まさに間に合ったって感じだよな…。ムッシュはあんな御大なのに、私の結婚パーティーにも来てくれたんですよ。友人になってくれた。ソロアルバムを作ってムッシュに渡すと、ファックスが送られてきて「聞きました、これはヤバイね」って書いてあるの(笑)。こんな後輩でペーペーの有名でもない我々に、友達のように接してくれて。

アベ:気さくで、本当にいい人だったな。

──K.O.G.A.でリリースし始めた頃から、サポートメンバーとして元ロンドン・タイムス〜フレデリックの岩島篤さんがベースを担当するようになったのは結構衝撃的でした。どんな流れで“センパイ”と繋がったんでしょうか?

ハッチ:フレデリックのライブを観に行ったんだよな。ちょうど今日で解散します、みたいな日だったんだ。それでリーダーの片岡(健一)さんに直接電話して、「イワジのベースは凄いから、うちでやってもらうのは可能でしょうか?」って言ったら、「おう、いいよ別に。もう解散したから」みたいな感じになって。それで来てもらったんだよね。

アベ:その前に対バンしたことがあったんですよ。センパイがイエロー・カーニバルっていうバンドを手伝ってて。代々木のチョコレートシティでやった時、本当はギャザーズが出る予定だったんです。ギャザーズのメンバーがそれを忘れてて飛ばしそうになって、堀部さんが困ってたんですよ。それで急遽デキシード・ザ・エモンズがバックをやって、堀部さんがボーカルでギャザーズの曲をやったの。

ハッチ:それ、俺がチョコレートシティのバイトをやめてヒモになった頃だな(笑)。

アベ:しかも、ザ・スポーツっていうバンド名で。「モッズらしく1文字のバンド名にしよう」って言って、モッズからかけ離れた名前になったっていう…サンバイザーをかぶってギャザーズの曲を演ったんですけど(笑)。その時の対バン相手がセンパイだったんですよ。「何だあのベース、凄ぇな!」と思って。

──本当に全身全霊で弾く感じでしたからね。

アベ:で、今度は新宿JAMでデキシード・ザ・エモンズとイエロー・カーニバルが対バンして、打ち上げを清龍でやって。

ハッチ:よく行ったなー、清龍。

アベ:その時、センパイが俺たちのテーブルに来て「今日のライブ凄い良かった」って、ずっと言ってくれたの。それでちょっと仲良くなって、下地みたいなのができた。

ハッチ:いやー、思い出せねえな。その後、一緒にフレデリックのライブを観に行ったんだよね、クロコダイルに。それは覚えてるんだ。

──フレデリックが大好きでライブにもよく行ってたんで、岩島さんがデキシード・ザ・エモンズで弾き始めたことが凄くうれしかったんですよ。バンドとして完璧だなと思って。

アベ:最初はセカンド・アルバムを手伝ってくださいっていう話だったんです。で、やってみたら面白かったんで、そのレコ発ライブ(1995年4月)をシェルターでやった時にも一回だけのつもりで弾いてもらって。このままセンパイにお願いした方がいいんじゃないかということになって、そこからゴルフ・レコード時代の途中までサポートしてもらいました。


PART.3 に続きます!